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吉野の紙の存在が一般的に知られるようになったのは、近世徳川期に入ってからですが、伝説によると、「壬申の乱で吉野で兵を挙げた大海人皇子(おおあまのおうじ)(後の天武天皇)が国栖(くず)の里人に紙漉きと養蚕を教えたのが始まりである」と伝えられています。今は亡き寿岳文章先生の説によれば、7世紀の初め、寺院などへ納品するため水に恵まれた大和の国へ伝えたとのこと。
もともと国栖紙(くずがみ)として古くから知られていましたが、江戸時代に大和宇陀町の商人が全国的に売りさばいていたため、すっかり宇陀紙(うだがみ)と名づけられ、今なおその名のとおり、表装裏打紙(うらうちがみ)として、重要な和紙として重宝がられています。
明治の末期までは230戸余りの紙漉く家々があったといいます。日清、日露の大戦、日中事変、大東亜戦争と男手が取られ、終戦後はわずか40戸余りとなり、その後、手漉き和紙の伸び悩みに割箸への転業が多く出ました。こうした状況の中で、奈良県和紙商工業共同組合を発足し、名声高い吉野の表装用宇陀紙も本腰を入れて取り組み、現在12戸の紙漉く家がおのおの頑張っています。後継者も
3戸にできて、張り切っています。
吉野には文化財指定を受けた紙が3種類あります。
・宇陀紙―コウゾを原料に、吉野でしか採取できない白土を混入して漉いた紙は、表装に用いた時粘りがあり、狂いが生じないのが特徴です。木灰煮宇陀紙は国宝修理用として使用されています。
・美栖紙(みすがみ)―同じくコウゾを使用し、漉いた紙をすぐ板に張り付ける(簀伏せ)ため柔らかく、表装用中裏紙(なかうらがみ)として欠かすことのできない和紙です。
・吉野紙―コウゾを使用し、美栖紙と同様簀伏せします。ウルシを濾すために使用します。
他に草木染め和紙は書道用として使用されています。またスギ皮和紙も最近人気を呼んでいます。 |