正倉院は奈良の東大寺大仏殿の西北の一部にあって、昔は東大寺の主要な財物を納める倉庫のある区域でしたが、今は宮内庁の管轄になっています。天平時代(八世紀)創建の木造校倉造りの正倉は、現在は建物だけで、内部の宝物類は、昭和年間に建造された耐震耐火構造の西宝庫と東宝庫とに収蔵され、また経典の一部は、明治年間に移築された聖語蔵に納められています。
これらの正倉院宝物は、聖武天皇の遺愛の品を中心に東大寺の寺宝、文書などで、いわゆる天平文化の粋が凝縮されているといわれています。それは古代中国の盛唐期の文明を国家的な規模で取り入れた東洋文化を表象する逸品ばかりで、大陸的、仏数的な色合いのなかに遠く古代の西域を経て東欧までの香りを感じさせる美術品もあります。その種類の豊富で、勅封という特別に厳重に保管されたために往時の姿をそのまま残していることは、世界に類のない超国宝級の貴重な存在といわれています。
そのなかで、紙類は地味でありながらその数量は非常に多く、これらに書かれている記事や絵画は古くから貴重な歴史的情報源となっていました。しかし、その紙そのものが研究されたのは比較的近年になってからでした。
昭和三五年(一九六〇)から三年間かけて実施された紙質の総合的学術調査によって、そのほぼ全容が総括的、系統的に研究されました。正倉院の紙は大別して、書巻、文書、未使用紙となります。書巻は唐から持ち込まれた紙やそれを日本で染色など加工した紙に書かれた典籍類と、唐から来た隋経、唐経および日本人の手になる和経などの経巻とがあります。文書は正倉院文書と東南院文書より成り、前者は大宝より宝亀に至る年代の書類で、後者は奈良から室町の各時代に及ぶ文書にまとめられています。つまり、八世紀から十一世紀にわたり宮廷や諸官庁で使われた紙がそのまま残されているわけです。
典籍類は当時のリスト(献物帳)により、由緒、来歴、筆者、年月日、紙の種類などが知られ、代表的な聖武天皇筆『雑集』や光明皇后筆『楽毅論』は麻紙が使われています。 文書も多く年月日が記され、また記事の内容や押捺された印鑑により、その紙の用途や使用場所が分かり、さらにその紙の生産地も認定できます。最も古い国産の紙として、大宝二年(七〇二)の御野(美濃)、筑前、豊前の国の戸籍が有名です。いずれもその国で漉かれた緒紙で、紙質の比較もできます。
奈良時代には仏教の写経に多量の紙が使用され、これに関係して国立写経所に残された多くの文書(手実)から、当時の用紙の種類、使用量、紙名、産地などが解明され、その原料、生産、加工、染色、流通など、さまざまの情報が解析され、実証されました。
製紙原料植物は主にコウゾ(穀・かじ)ですが、アサ、マユミ(真弓)、タケ、藁、マツ、トチュウ、ニ
レ、斐(雁皮)などが加えられています。そして必要に応じてキハダ、紅、紫、アイなどで染色され、また布屑や故紙も再生利用されていました。最も興味があり重要な知見は、紙質を年代順に調べると、斐の混入された紙がその混入の多いものほど繊維が方向性をもって均一に美しく絡み合い、また紙の上下の端が厚みを帯び、この傾向は年代と共に顕著に見られる事実です。これは後に雁皮の成分の化学的研究などにより、和紙の「流し漉き」の原形が奈良時代末期(八世紀から九世紀に移る頃)に行なわれていたことの証明につながります。このように、和紙の発展の原点となる希有で貴重な資料として、「正倉院の紙を知らずして日本の紙を語るなかれ」と言われるのも理由のあることであります。
(町田誠之)
※参考文献『和紙の手帖』(全和連発行)p42-43 全国手すき和紙連合会発行
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