斐伊川沿いの奥出雲地方は、古くから「紙漉きの里」として知られていました。斐伊川の豊富な清流付近から産する良質なコウゾ・ミツマタの原料を使い、障子紙、中折半紙などの生産を行なっていました。
江戸時代には、松江藩の財政立て直しの一環として藩主による保護奨励もなされ、出雲地方最大の紙の生産地になったのです。最盛期には、紙漉き戸数が400戸あり、いかに紙漉き業の中心地であったかがわかります。
明治以降、和紙生産伝習所を設置し、高等小学校2年生を対象に紙漉き技術の指導を行ない、後継者育成に力を入れてきました。また、紙生産組合を結成し、資金調達・生産向上を行なっていました。
しかし、安価で大量にできる機械製品に押され、次第に減り、現在では1戸のみの「斐伊川和紙」となってしまいました。
昭和40年頃から日本民芸協会の人たちとの交流により、「素朴で健康的な美しい和紙」をモットーに、障子紙だけでなく多種多様の和紙をつくるようになりました。住宅の大型化に伴い、平成7年より中国地方では初めて、1×2メートル判の襖紙の製作を始めるなど、時代のニーズにあった製品つくりに取り組んでいます。
また、学校、婦人会、公民館活動等の手漉き和紙教室を実施して、紙漉きの技術の保存・伝承に努めています。この地方で産する、ガンピ・コウゾ・ミツマタを使い、それぞれの原料の特性を生かして漉いた和紙は、昭和54年日本民芸館賞(最高賞)を受賞するなど、高い評価を受けています。 |
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