板干し風景 |
出雲の国は、天平9年(737)の正倉院文書『写経勘紙解(しゃきょうかんしげ)』にも出雲の紙の名が見えるように、歴史は古く、天平の昔にさかのぼります。
近世に入ってからは、松江藩主松平直政が越前より紙漉きの工人を招いて、松江郊外の野白に御紙屋を設けたのに始まります。続いて直政の子、近栄が、広瀬町字祖父谷(おじたに)に松江藩の工人を移住させ、御紙屋としました。
八雲村はこの祖父谷紙の技術が江戸中期に伝えられたものといわれています。
最盛期には30軒あった紙漉き屋は、現在3軒を残すのみです。 こうして衰退してゆく出雲和紙を、伝統技術に現代感覚を加え、出雲民芸紙としてよみがえらせたのは、故人間国宝安部榮四郎でした。安部は大正、昭和と民芸活動を通じ、民芸の創始者柳宗悦、陶芸家のバーナード・リーチ、河井寛次郎、浜田庄司、版画家の棟方志功らと親交を結び、共に活動し、彼らに学びました。それは安部の仕事に大きな影響を与え「手は古く、頭は新しく」―伝統の技でもって一枚の和紙に美を与えるものでした。
安部は、古来の原料と技術を用い雁皮紙を漉き、昭和43年、重要無形文化財雁皮紙技術保持者として認定され、また一方では彼独自の彩り美しい創作和紙をつくりだしました。
安部の活動は国内はもとより、アメリカ・フランス・中国等でも個展を開き、海外へ日本の手漉き和紙の名を広めました。その旺盛な活動は逝去する直前まで続けられ、昭和
58年、手漉き和紙の普及と、安部の情熱を傾けた紙の研究資料や民芸コレクションを展示するための財団法人安部榮四郎記念館を設立しました。
現在、安部榮四郎の心と技は、孫の手へ受け継がれ、ここ八雲の地にその伝統は生き続けています。
紙の持ち味を生かすことを一番として、雁皮紙は雁皮紙らしく、三椏紙は三椏紙らしく、楮紙は楮紙らしくつくりあげられています。 |
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