この地方の手漉き和紙の歴史は浅く、宝暦年間(1751〜1763)に山深い地域(胴山川流域)で、豊富な良質の水と自生するコウゾを刈って、誰かが紙を漉いていた、という伝承がありますが、これを裏付ける資料はありません。
宝暦の中頃、平野部に3戸の紙屋が生まれているところから、約240年の歴史とみるのが妥当と思われます。他産地のように藩の保護・奨励もなく、江戸時代後期から明治にかけて、農家の副業として紙づくりが行なわれていましたが、後発の地なるがゆえに、当時の苦労は筆舌に尽くしがたいものがあったと記述されています。 |
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交通の便も悪く、ただあるのは良質の水と辛苦に耐える住民性とこれを指導する地方資産家の熱意でした。原料供給者・製造者・販売者の三者の体系が生まれ、共に私利私欲を捨てて相互依存関係を強める態勢が築かれました。ただ孤軍奮闘あるのみの経営者の姿勢が三位一体となった態勢とあわせて、この地方の和紙産地を築きあげる原動力となったわけです。
それ以来、農家の副業から専業へと発展した手漉き業者は、明治後半から大正初期を最盛期として761戸を数えるに至りました。
特筆すべきは、明治中期、当時としては最劣等視して顧みられなかった三椏紙を、苛性ソーダで処理し晒粉(さらしこ)で漂白して好成績をおさめたのが動機となって、伊予改良紙なるものが生まれたことです。
後に、ミツマタ・マニラアサを中心とした改良紙増産態勢が敷かれ、この頃から、薄物(うすもの)に対する技術改良と、製紙工程にビーターや蒸気乾燥機を開発するなど、省力化・近代化への道を進むこととなり、大量生産、薄利多売の方向を指向する和紙産地へと移行していきました。その結果、今日では書道用の和紙の特定した産地ではありますが、大正2年をピークとして事業所も激減し、11戸を残すのみとなっています。 |
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