今から1500年ほど前、継体天皇が越前におられ、男大迹(おおとの)皇子と呼ばれていた頃、この村里の岡太(おかもと)川の上流に美しい姫が現れて「この地は清らかな水に恵まれているから、紙漉きをして生計を立てよ」と、紙漉きの技を里人に教えたといわれます。人々はこの姫を「川上御前」とあがめ奉り、岡太神社を建ててお祀りし、紙漉きの技を伝え今に至るといわれます。
越前和紙は、日本に紙が伝えられた4〜5世紀頃にはすでに優れた紙を漉いていたようです。正倉院文書の天平9年(737)『写経勘紙魁(しゃきょうかんしげ)』に「越経紙一千張薄」とあり、写経用紙として薄紙も納めていたので、すでに技術水準が高かったといえます。 |
平安時代には中男作物の紙を納め、中世には鳥子紙・奉書紙の名産地となっています。近世にはさらに檀紙の産地として名声を博し、最高品質を誇る紙の産地で、『雍州府志(ようしゅうふし)』は「越前鳥子是を以て紙の最となす」と讃え、『経済要録』には「凡そ貴重なる紙を出すは、越前国五箇村を以て日本第一とす」と評しています。
寛文元年(1661)に初めて藩札を漉き出したのも、明治新政府の太政官金札(だじょうかんきんさつ)用紙が漉かれたのもこの地です。また、横山大観始め、多くの芸術家の強い支持を得て、全国に越前和紙の名は知られています。長い歴史と伝統に育まれ、品質、種類、量共に、日本一の和紙産地として生産活動が続けられています。 |