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高野紙の起源については二つの説話が残されています。一つは、伊都郡かつらぎ町新城に「楮(かご)の森丹生明神(丹生都比売(にゅうずひめ))の祭祀(さいし)が、楮の栽培と利用を教えた」というものです。この楮の森は貴志川の辺りにあって、かつては半紙や島包紙の漉かれた里でした。もう一つは、弘法大師が古佐布荘(九度山町古沢)で「紙の製法を教えた」というものです。
高野紙は鎌倉時代に刊行が始まった高野版典籍に使用されたことで、大きく飛躍しました。江戸中期、高野版が京都や大坂で出版されるようになり、衰退の道をたどりはじめます。しかし、「生漉き(きずき)にして虫蝕すること無く水に入れても破れず墨附はあしけれども力強し」とうたわれた高野紙は、傘紙や障子紙として紀伊藩の特産品として大坂の市場をにぎわしました。現在
1戸がその伝統を守っています。 |
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