保田和紙の起源は定かではありませんが、元和5年(1619)に徳川御三家の一つ紀州徳川の初代藩主徳川頼宣公がお国いりをした時に、新しい藩づくりとして産業の面を見て、紙が全く生産されていないことに目をつけて、藩内で一番若い大庄屋であった山保田の笠松左太夫を適任者として、現在の奈良県吉野に見学にやりました。しかし、その当時、吉野和紙は土地の特産物であったため教えてはくれず、いったん帰国して思案を重ねて名案をたてました。その名案とは、山保田組の中から美男子を3人選び、山産物屋に仕立て、吉野の紙屋廻りをさせることでした。3人の名は多吉・良助・平太といい、3年間働き次々と紙を漉けるお嫁さんを連れて帰ってきました。資材も道具も揃え「多吉・おまん」「良助・おいま」「平太・おたけ」の3夫婦で紙漉きを始めました。
初めのうちは、土地が違うせいか吉野和紙のような紙ができず、夜を徹して繰り返し紙の漉き方や材料の混ぜ方を工夫しました。ようやくできあがった紙を早速殿様に献上したところたいへんなお喜びで、励ましの言葉もいただきました。この時から、保田和紙の上納の日は大きな旗を立てました。その後、村人に紙漉きが広まり、一時は400軒もの紙漉屋があり、多くは和傘に使われたので、地元ではこの紙を傘紙といいました。
保田和紙は、伝統工芸品として守られており、昭和54年にオープンした清水町高齢者生産活動センターなどでも広く親しまれています。また、学校の社会学習として、見学や紙漉き体験に大阪方面などからも利用されています。 |
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